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高野山について

高野山は、およそ1200年前、西暦806年に弘法大師によって開かれた、真言密教の修行道場であり、我が国のもう一つの仏教聖地である比叡山よりもなお高い、標高およそ1000mに位置する、全国に広がる高野山真言宗の総本山です。 高野山総門であり、結界のシンボルである重要文化財・大門正面の聯(れん)には「日々ノ影向ヲ關(かか)サズシテ処々ノ遺跡ヲ檢地ス」とあり、弘法大師は毎日 御廟から姿を現し方々を廻って人々を助けているという、同行二人の信仰を示しています。 山上の盆地には、壇場伽藍(だんじょうがらん)と称する聖地があります。 そこには、さまざまなお堂や塔が立ち並び、仏像や曼荼羅が参拝者を迎えます。また、うっそうと杉の樹の茂る奥の院には、さまざまな人々のお墓が立ち並んでいます。

弘法大師と真言宗

弘法大師は、讃岐の国(現在の香川県)に生誕しました。15才の頃から漢学や史学を学び、後に上京し、18才の時に都の大学の明経科(現在の文学部)に入って、中国の古典や儒教の学習を積まれました。当時の大学のエリートコースに入り、努力を重ねていたのですが、一人の沙門(しゃもん:僧侶のこと)に会い、虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)の法を授けられたことが、大師の大きな転身の端緒となりました。

弘法大師20歳で出家した大師は31歳の延歴23年(804年)7月、藤原葛野麿(かど のまろ)を大使とする遣唐使の第一船に便乗して、海を渡られ、その年の暮に、 長安に入りました。 恵果和尚より正統密教をきわめ、8人目の阿闍梨遍照金剛(あじゃりへんじょうこんごう)の称号を得、唐に滞在すること2年余、大同元年(806)に帰国した後、真言密教を各地に広められ、弘仁2年(811)年に伝教大師が弘法大師に弟子入りしたことで、弘法大師の仏教界・朝廷への評価を一気に高めました。弘法大師の元には多くの弟子があつまり、このころ真言宗が成立したと言われています。 当時の帝、嵯峨天皇より高野山を賜わった大師は、弘仁7年(816)に諸弟子や工人等多数を伴って登山し開創に着手され、これが高野山金剛峯寺のはじめといわれています。

弘仁14年(823)正月、朝廷より弘法大師に東寺がまかされ、それ以後、真言宗の根本道場として、社会活動の拠点としてました。 (弟子の僧50名を常住させ、他宗の僧がここにまざり住む事を禁じ、真言密教の研究に専念するようにとの官符が下されています。) 天長5年(826)には、東寺の東隣に貴賎・貧富の区別によって入学制限 を設けない日本最初の庶民学校である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という学校を開きました。 書・絵画・彫刻にも通じ、さらに「いろは文字」をつくり、温泉を発見し、石炭・石油の使用を教え、満濃の池を造築し、橋をかけ、道を開いて、日本の文化と生活にすばらしい足跡を残され、「日本の文化の母」とたとえられた大師は、かねてよりの遺言どおり、承和2年(835)3月21日奥の院に入定されました。

その後、高弟真然大徳が中心となり、伽藍の造営を進め成功させ、仏教各派の修禅の大道場として栄えました。 現在、伽藍と奥の院の両壇を中核に総本山のほか、117ヶ寺があり神秘な霊場を形成しています。

高野山発見の物語

2ヵ年の入唐留学(にっとうるがく)をおえた大師は、唐の明州(みんしゅう)の浜より、帰国の途につかれようとした時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を空中に投げられました。その三鈷は空中を飛行して、現在の伽藍の建つ壇場におちていたといいます。 大師はこの三鈷の行方を求め、大和宇智郡(現在の奈良県五條市付近)に入られたとき、赤黒い色をした身のたけ2メートル余り、手に弓矢を持ち、黒と白の二匹の犬を連れた一人の猟師と出会います。 大師はその犬に導かれて、紀の川を渡り、やがて嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出逢い、「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中深く進んでいくと、そこに鉢を伏せたような台地がありました。そして、そこの1本の松の木に、明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけて、この地こそ、真言密教にふさわしい地であると判断し、この山を開くことを決意されました。 山中で出遭った女性は、山麓の天野の里に祀られている丹生都比売明神であり、猟師は大師の手によって狩場明神として祀られたといいます。