不動明王






 当院は、弘法大師空海彫像の不動明王(秘仏)をご本尊としております。
不動明王は、ヒンズー教の三大神の一人である「シヴァ」とされており、我が国には弘法大師空海が広められたとされ、その後広く信仰が広まりました。

 また、不動明王は五大明王の一人であり、五大明王の筆頭とされています。 一般的に、仏教におけるご本尊や仏像は、優しく、慈しみのある姿をしたものが多いですが、不動明王は非常に険しい表情をしているのが特徴です。

 これは、すべての悪を絶ち、もって仏道に導くことで人々を救済する役目を担っているためだとされています。 その恐ろしい様相から「戦いの仏」のように見えますが、実は迷いの世界から煩悩を断ち切るよう導いてくれる慈悲深い仏 であります。

戦時中は「敵国退散の守護神」として扱われたり、「疫病退散の守護神」としても扱われておりました。






施設紹介






KISSENTEI

 平成元年に改修しました。四季の草木を眺め、野鳥の鳴き声、谷川から湧き出る水音に耳を傾けながら、都会の喧噪から離れたある種の懐かしさを味わうことが出来ます。
 谷間に位置する当院の静けさの真骨頂をお感じいただけます。 夕暮れ時のライトアップされたお庭を眺めながらお食事が来ます。


BIFUKUMONIN RYO

 鳥羽天皇の皇后、美福門院のご遺骨を西谷に納めて丸山御陵と称して以来、当院が供養奉仕をして参りました。


Fudo-in HONDOU

 大師彫像の不動尊(秘仏)を本尊としています。 日輪大師尊像、舟板名号八幡菩薩、飛騨高山金森家、志摩城主、三田九鬼家、伊勢三郎義盛、空挺落下傘部隊および檀信徒各家の霊牌が安置され、日々の供養が行われます。


The Graves of the Imperial Army Prachutist Officers

 空挺落下傘部隊将兵の墓 「花負いて 空撃ち征かん雲染めて、屍悔いなく 我等散るなり」 空の一字墓として当院が供養奉仕しています。 毎年9月に全日本空挺同志会主催にて慰霊祭が執り行われます。
(奥の院参道一の橋の右すぐにあります。)


KURI

 お食事は吉仙庭を望む書院又は和歌山県指定文化財の庫裡(くり)にてお楽しみ頂きます。


SHO-IN

 旧書院(食事処)は、不動院書院安土桃山時代の建築で、山内でも有数の歴史を誇っています。
(県指定文化財)


JYODAN NO MA

 時代の変遷とともに、高野山の面影も随分と変化しました。 上段の襖絵には千百余年の歴史あるお山の姿が描かれています。 多宝塔、不動堂、囲炉裡の間、不動護摩の屏風、友松海北の画などがあります。


Garden of flowers

 吉仙庭に咲くハナカイドウ。 5月初旬になると、ようやくハナカイドウが咲き始めます。 可憐な色がとても可愛らしいです。 4月の桜、5月のしゃくなげ、秋の紅葉、四季折々の移り変わりをご堪能頂けます。






年間行事






<2月>
節分星祭(3日)
その年の星を占い、良い星の方はよりよく、悪しき星の方はその災いを除くように星祭りの法会を行います。大寒に始まり、2月3日の節分会までご祈願を致します。

お申し込みは前年、11月よりお受けいたしますので、当ホームページよりお申し込みいただくか、當院までお問い合わせ下さい。
<3月>
春季彼岸会
彼岸の入りから彼岸あけまで、當院にご祠堂になられた各家先祖諸精霊の彼岸供養会を行います。

ご参拝いただければ、その都度ご回向のための読経を上げさせていただきます。
<8月>
盂蘭盆会施餓鬼会
<11日~13日・盂蘭盆会>

11日夕刻、高野山の伝統に則り、提灯に灯火をともし、仏迎を行います。奥の院に墓碑のある方は各々の墓碑まで仏さまをお迎えにまいります。當院にてご納骨頂き、奥の院御廟脇の納骨堂に祠堂された仏さまは納骨堂まで迎えにまいります。13日まで當院にてお祀りし、再び奥の院まで仏さまをお見送りいたします。随時、ご参拝下さい。


<8月最終日曜・顧不動尊奉賛会祈祷会・大般若転読会>

<不動院本堂>
・顧不動尊護摩祈祷会 (午前9時、 午後2時) 
・大般若転読会 (午前11時)

午前と午後の2回、當院護摩堂にて顧不動尊護摩祈祷会を奉修致します。
顧不動尊奉賛会会員の方には毎年ご案内を差し上げます。
(奉賛会入会については當院へお問い合わせ下さい。)

午前11時より大般若転読会(大般若波羅蜜多経六百巻を転読し、諸精霊の追福菩提・諸祈願の成就を願います。)を行います。
ご参拝の皆様に延命うどん・健康祈願ナンキンのお接待を致します。
<9月>
秋季彼岸会
彼岸の入りから彼岸あけまで、當院にご祠堂になられた各家先祖諸精霊の彼岸供養会を行います。ご参拝いただければ、その都度ご回向のための読経を上げさせていただきます。
<毎月28日>
護摩祈祷会
毎月、28日に當院護摩堂にて不動尊護摩祈祷を行います。修法時間はその都度、當院へお問い合わせ下さい。 尚、1月は初不動・12月は終い不動となります。

8月は最終日曜に大般若転読会を併せて行います。詳しくは当院までお問い合わせ下さい。





高野山のご紹介






 高野山は、およそ1200年前、西暦806年に弘法大師によって開かれた、真言密教の修行道場であり、我が国のもう一つの仏教聖地である比叡山よりもなお高い、標高およそ1000mに位置する、全国に広がる高野山真言宗の総本山です。 

 高野山総門であり、結界のシンボルである重要文化財・大門正面の聯(れん)には「日々ノ影向ヲ關(かか)サズシテ処々ノ遺跡ヲ檢地ス」とあり、弘法大師は毎日 御廟から姿を現し方々を廻って人々を助けているという、同行二人の信仰を示しています。 山上の盆地には、壇場伽藍(だんじょうがらん)と称する聖地があります。  

 そこには、さまざまなお堂や塔が立ち並び、仏像や曼荼羅が参拝者を迎えます。また、うっそうと杉の樹の茂る奥の院には、さまざまな人々のお墓が立ち並んでいます。






弘法大師と真言宗






 弘法大師は、讃岐の国(現在の香川県)に生誕しました。15才の頃から漢学や史学を学び、後に上京し、18才の時に都の大学の明経科(現在の文学部)に入って、中国の古典や儒教の学習を積まれました。当時の大学のエリートコースに入り、努力を重ねていたのですが、一人の沙門(しゃもん:僧侶のこと)に会い、虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)の法を授けられたことが、大師の大きな転身の端緒となりました。

 弘法大師20歳で出家した大師は31歳の延歴23年(804年)7月、藤原葛野麿(かど のまろ)を大使とする遣唐使の第一船に便乗して、海を渡られ、その年の暮に、 長安に入りました。 恵果和尚より正統密教をきわめ、8人目の阿闍梨遍照金剛(あじゃりへんじょうこんごう)の称号を得、唐に滞在すること2年余、大同元年(806)に帰国した後、真言密教を各地に広められ、弘仁2年(811)年に伝教大師が弘法大師に弟子入りしたことで、弘法大師の仏教界・朝廷への評価を一気に高めました。弘法大師の元には多くの弟子があつまり、このころ真言宗が成立したと言われています。 当時の帝、嵯峨天皇より高野山を賜わった大師は、弘仁7年(816)に諸弟子や工人等多数を伴って登山し開創に着手され、これが高野山金剛峯寺のはじめといわれています。

 弘仁14年(823)正月、朝廷より弘法大師に東寺がまかされ、それ以後、真言宗の根本道場として、社会活動の拠点としてました。 (弟子の僧50名を常住させ、他宗の僧がここにまざり住む事を禁じ、真言密教の研究に専念するようにとの官符が下されています。) 天長5年(826)には、東寺の東隣に貴賎・貧富の区別によって入学制限 を設けない日本最初の庶民学校である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という学校を開きました。 書・絵画・彫刻にも通じ、さらに「いろは文字」をつくり、温泉を発見し、石炭・石油の使用を教え、満濃の池を造築し、橋をかけ、道を開いて、日本の文化と生活にすばらしい足跡を残され、「日本の文化の母」とたとえられた大師は、かねてよりの遺言どおり、承和2年(835)3月21日奥の院に入定されました。

 その後、高弟真然大徳が中心となり、伽藍の造営を進め成功させ、仏教各派の修禅の大道場として栄えました。 現在、伽藍と奥の院の両壇を中核に総本山のほか、117ヶ寺があり神秘な霊場を形成しています。

 2ヵ年の入唐留学(にっとうるがく)をおえた大師は、唐の明州(みんしゅう)の浜より、帰国の途につかれようとした時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を空中に投げられました。その三鈷は空中を飛行して、現在の伽藍の建つ壇場におちていたといいます。

 大師はこの三鈷の行方を求め、大和宇智郡(現在の奈良県五條市付近)に入られたとき、赤黒い色をした身のたけ2メートル余り、手に弓矢を持ち、黒と白の二匹の犬を連れた一人の猟師と出会います。 大師はその犬に導かれて、紀の川を渡り、やがて嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出逢い、「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中深く進んでいくと、そこに鉢を伏せたような台地がありました。

 そして、そこの1本の松の木に、明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけて、この地こそ、真言密教にふさわしい地であると判断し、この山を開くことを決意されました。 山中で出遭った女性は、山麓の天野の里に祀られている丹生都比売明神であり、猟師は大師の手によって狩場明神として祀られたといいます。






高野山発見の物語






 2ヵ年の入唐留学(にっとうるがく)をおえた大師は、唐の明州(みんしゅう)の浜より、帰国の途につかれようとした時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を空中に投げられました。その三鈷は空中を飛行して、現在の伽藍の建つ壇場におちていたといいます。

 大師はこの三鈷の行方を求め、大和宇智郡(現在の奈良県五條市付近)に入られたとき、赤黒い色をした身のたけ2メートル余り、手に弓矢を持ち、黒と白の二匹の犬を連れた一人の猟師と出会います。 大師はその犬に導かれて、紀の川を渡り、やがて嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出逢い、「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中深く進んでいくと、そこに鉢を伏せたような台地がありました。

 そして、そこの1本の松の木に、明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけて、この地こそ、真言密教にふさわしい地であると判断し、この山を開くことを決意されました。 山中で出遭った女性は、山麓の天野の里に祀られている丹生都比売明神であり、猟師は大師の手によって狩場明神として祀られたといいます。