其の壱

七歳のご覚悟



  真魚(まお※のちの弘法大師空海)さまは、宝亀五年(七七四年)六月十五日、讃岐国の屏風ガ浦(香川県善通寺市)でお生れになりました。幼少期は、土で仏さまを作ったり、草や木でお堂を作って仏さまを拝むことを楽しんでいました。

 7歳の頃、真魚(まお)さまは、香川・善通寺が背負う屏風浦五岳山(びょうぶがうらごがくさん)の一つで、一番高い我拝師山に登り、「仏道で衆生の救済が叶うなら、釈迦如来よ、姿をお見せください。叶わないのならこの身を諸仏の供養に捧げます」と言って、断崖絶壁の谷底に身を躍らし飛び降りました。

 すると、紫色の雲が湧き起こり、その中に大光明を放って百宝の蓮華に座したお釈迦様が現れ、羽衣を身に纏った天女が降りてきて真魚さまを抱きとめ「一生成仏」とおっしゃいました。

 この捨身誓願(しゃしんせいがん)の出来事は、真魚(まお)さまの仏教への献身と願いを示すものでした。この場所は後に「捨身ヶ嶽」と名付けられ、お遍路の霊場となりました。真魚(まお)さまの精神的な姿勢や尊い使命感は、真言密教の創設とともに、日本仏教の発展に大きな影響を与えました。



其の弐





ゆく河の流れは絶えずして、 しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、 またかくのごとし。


 『無常観』それは、仏教の根本思想であり、「変わらないように見えても変化しないものなどなく、すべては常に変化していて、やがて滅んでいく」という思想です。三大随筆のひとつとされる『方丈記』には仏教的観点からの諦観が徹底して貫かれています。

 有名な冒頭の一節では、流れ過ぎていく河の流れは途絶えることがなく、それでいてもとの水ではない。よどみに浮かんでいる水の泡は、一方では消え一方ではできたりして、長い間とどまっている試しはない。この世に生きている人と住む場所とは、またこのようである。と記されています。人やその人たちが住んでいる場所を川の流れや水の泡に例えた文章からは、鴨長明の美意識の高さがうかがえると同時に、鴨長明の儚き無常観が表れていると言えます。

 自分の心を苦しめている一切の無常からの解放を願い、隠居する道を選んだ鴨長明。方丈の小さな庵での生活の中で、一旦は心の安らぎを得ましたが、世間と隔絶した生活を楽しく感じている自分に気づきます。そして最後に、方丈庵での暮らしに強い愛着を抱いている今の自分は、はたして仏教的な往生からは程遠いものではないだろうかと、自身のあり方を問うかたちで結んでいます。『方丈記』の中で、鴨長明は「この人生を生きる意味とは何か」を自分自身に問いかけます。そして私たちに対しても、同じ問いを投げかけています。

 栄華を極めた都も、あっという間に廃墟になる。一生懸命に働いて建てた立派な家も、いずれ跡形もなく朽ちていく。全てが儚く消える世にあって、私たちは、どう生きるのか。 辛くても、苦しくても、悲しくても、なぜ生きるのか・・・。

 鴨長明は、無常の世の中で人間にとって本当に大切なことは何かを、『方丈記』の中で問いかけています。方丈記が伝えようとした主題に思いを馳せながら、じっくりと自分の人生を見つめ直してみるのもよいのではないでしょうか。    




其の参





 『侘しさ』と『寂しさ』を表す日本語に、より観念的で美的な意味合いを加えた概念を、わび・さびといいます。

 さびは見た目の美しさについて表現しています。かたちあるものは、廃れたり、さびれたり、汚れたり、欠けたりします。それは必ずしも滅びていくという意味ではなく、翻って、その移ろいが紡ぎだす、多様で観念的な美しさが「さび」であるとされます。わびは、さびれや廃れを受け入れ、楽しもうとする前向きな心を表現しています。

 初めてわびさびの概念が生まれたのは、中国の宋王朝(960〜1279年)時代からでした。時を経て仏教が日本に伝来し、日本では仏教芸術と仏教文化が芽生え、 それ以降、日本独自のわび・さびを確立しました。

 仏教の根本的な経典である「般若心経」では、全てのものが「空」であり、絶えず変化していると唱えており、日本人の万物に対する美意識や価値観をさらに深めました。日本のわびさびを感じることができるスポットとして、神社仏閣が挙げられます。特に当時の佇まいを今に伝える神社仏閣は、悠久の年月に思いを馳せることができます。また、日本庭園や、満月に次いで美しいとされている十三夜月もわびさびを感じさせてくれます。

 不動院では、安土桃山時代の歴史的建造物や、著名作庭家の手による趣ある吉仙庭、山内随一の静寂あるお庭からはお月様を鑑賞いただくことができ、当院ならではのわびさびを感じていただくことができます。



其の肆




 高野山は標高が高く、周囲を山に囲まれていることから、平均気温は麓の紀の川周辺の地域より5℃ほど低くなっています。

 サクラは四月中旬頃から咲き始め、五月から六月の新緑の頃には、優しく心地良いそよ風とともに、若葉や高野町の花である「シャクナゲ」を始め、色とりどりの草花が咲きます。

 夏は湿度が高く、 急な天候の変化によって局地的な大雨になることもあります。年間降水量は、全国平均(約1700ミリ)よりも多く、 約1850ミリになっています。

 夏が短く秋の訪れが早い高野山では、十月中旬には朝晩は冷込み、、モミジやイチョウが赤色や黄色などに色づき始め、秋本番を迎えることになります。十一月中旬頃ごろまで、 暖かい色に染まった山の紅葉を味わうことができます。

 高野山の冬は降雪も多く、冬の寒さは格別です。 例年10~20㎝の積雪があります。辺りは真っ白な雪化粧となり、日頃と違った神聖な雰囲気を楽しんでいただけます。また、春の訪れは遅く、三月下旬からようやく気温が10℃を超えるようになります。

 四季おりおりの花や風景は、世界的聖地高野山ならではのものです。



不動院に咲く美しい花々
(撮影:副住職)

不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々
不動院に咲く花々


其の伍




 仏教では食事も大切な修行の一つとされています。精進料理の「精進」は仏教用語であり、美食を戒めて粗食をし、精神修養をするという意味をもっており、仏教の戒律に基づき肉や魚などの動物性の食品を使わない料理です。しかしながら野菜ばかりのシンプルなものではなく、趣のある和の食器の御膳に趣向を凝らした品々が並び、料亭のような美しい盛り付けで供される大変豪華な料理です。

 高野山の精進料理のルーツは「振舞料理」であるとされ、平安時代の開創以来、皇族方や大名の参詣をはじめ、全国から参拝に来られる檀信徒に対して、「ようこそお越しくださいました」という感謝の気持ちを込めて料理をお出しするという伝統が今も脈々と受け継がれています。
 また、参拝客にお出しする精進料理(振舞料理)と、修行僧が食する料理とは別のものになります。

 精進料理の基本は五味・五法・五色と言われます。五味は醤油、酢、塩、砂糖、辛み。五法は生のまま、煮る、焼く、揚げる、蒸す。五色は五つの色合い、赤・青・黄・黒・白の色彩を現わし、見た目にも美しく鮮やかに盛り付ける、という意味が込められています。加えて、高野山では、「五禁」といって、ねぎ、らっきょう、にら、にんにく、しょうがといった、においの強い野菜は使いません。

 高野山は1000m級の山々に囲まれた標高約800mの山上にあるため農耕に適した場所がなく、精進料理に必要な野菜などは、高野山周辺の方々が奥之院などにお供えしていた食材を各寺院に分配することで賄っていました。このように高野山の精進料理は、深い信仰心によって支えられてきた、尊い食文化なのです。



特別付録




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