五筆和尚
―筆に宿る魂、書の達人としてのお大師さま―

 お大師さま、弘法大師空海といえば、真言宗の開祖としてあまりにも有名ですが、そのお顔は一つではありません。教育家、思想家、土木技術者、そして、日本の文化史に燦然と輝く「書の達人」としての顔もお持ちでした。

 今回は、お大師さまの超人的な書技を物語る「五筆和尚(ごひつわじょう)」の伝説と、その筆先に込められた魂に迫ります。

1.「五筆和尚」― 驚異の才能を物語る伝説

 お大師さまは、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)と並び、平安時代初期の三人の能書家「三筆(さんぴつ)」の一人に数えられます。その中でも、お大師さまの書は群を抜いていると称賛され、後世にこんな異名が生まれました。

それが五筆和尚(ごひつわじょう)です。

 これは、「両手、両足、そして口に筆をくわえ、同時に五つの書を書き上げた」という、にわかには信じがたい伝説です。もちろん、これは史実そのものというより、お大師さまの書がいかに自由自在で、超人的な領域に達していたかを、人々が敬意を込めて語り伝えたものです。   このような伝説が生まれる背景には、次のような有名な逸話があります。

「弘法、筆を択ばず」の語源

 お大師さまが宮中の応天門の扁額(へんがく=門に掲げる看板)を揮毫(きごう)した時のことです。書き上げた額を門に掲げてみたところ、なんと「應」の字の最後の一点(心)が抜けていることに気づきました。

 巨大な額を再び降ろすのは大変な作業です。すると、お大師さまは下から筆に墨を含ませ、門に向かって投げつけました。筆は見事に額に当たり、抜けていた場所に力強い点を打ち込んだのです。

 この離れ業から、「真の達人は道具の良し悪しを問わない」という意味の**「弘法、筆を択ばず」**ということわざが生まれました。このような神業をやってのけるお大師さまだからこそ、「五本の筆を操った」という伝説も生まれたのでしょう。

2. お大師さまの書の魅力 ―唐の最先端と、魂の躍動

 お大師さまの書は、なぜこれほどまでに人々を魅了するのでしょうか。その魅力は、代表的な作品から垣間見ることができます。

最高傑作『風信帖(ふうしんじょう)』

国宝に指定されている『風信帖』は、お大師さまが盟友であった天台宗の開祖・最澄に宛てた手紙です。これは、お大師さまの書の最高傑作と称えられています。

 その書は、実に変化に富んでいます。流れるように伸びやかな線、力強く打ち込まれた筆、潤沢な墨で書かれた文字と、かすれた線で描かれた文字。文字の大小や配置も自在で、まるで音楽を奏でているかのような躍動感にあふれています。

 そこには、手紙の相手である最澄への親愛の情や、お大師さま自身の穏やかで豊かな人間性が、見事に表現されています。「書は人なり」と言いますが、『風信帖』はまさにお大師さまの温かいお人柄そのものを今に伝えているのです。

若き日の情熱『聾瞽指帰(ろうこしいき)』

 一方、お大師さまが24歳の時に書かれた出家宣言書『聾瞽指帰』は、全く違う表情を見せます。若き日の作品らしく、一字一字が力強く、骨格はたくましく、仏道にかける燃えるような情熱と固い決意が、紙の上からあふれ出てくるようです。

 これらの書に共通しているのは、単に技術的にうまいという次元を超えた、見る者の魂を直接揺さぶるような生命力です。お大師さまの書が「書の神様」とまで言われる所以は、ここにあります。

3. 書は仏法を伝える器 ― 筆と祈りの一体化

 お大師さまにとって、「書く」という行為は、単なる自己表現ではありませんでした。それは、仏の教えを伝え、自らの心を整えるための、大切な「修行」そのものだったのです。

「書は心画なり」

 「書は心画(しんが)なり」という言葉があります。書は、その人の心を映し出す鏡である、という意味です。お大師さまは、筆を執り、心を集中させて文字を書くことを通じて、心を清め、仏と一体になる境地を目指しました。これは、真言密教の教えである、身体(身)・言葉(口)・心(意)の働きを仏と一体化させる「三密修行」の実践でもありました。

 お大師さまが揮毫された一文字一文字には、深い祈りと、宇宙の真理と一体となった精神性が込められています。だからこそ、その書は千二百年の時を超えて、今なお私たちに力強いエネルギーを与えてくれるのです。

 また、お大師さまは密教の難解な教えを人々に分かりやすく伝えるため、多くの経典を美しい文字で書き写し、仏の世界を図で表した曼荼羅(まんだら)を請来しました。お大師さまにとって、書や絵画は、衆生救済のための慈悲の「方便(ほうべん)」、すなわち大切な手段でもあったのです。

 お大師さまが筆に込めたのは、墨だけではありませんでした。そこには、仏法への熱い情熱、人々への限りない慈悲、そして、悟りの境地で感じた魂の躍動そのものが込められています。お大師さまの書に触れる機会があれば、ぜひ少しだけ足を止めてみてください。

 その一文字一文字の向こうに、今も生き続けるお大師さまの息遣いと、私たちへの力強いメッセージが聞こえてくるかもしれません。


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